【きいて知る】濱口賀世さんが語る!父・濱口八郎の物語⑥

▶父の口癖「祭りは市民がつくらないかん!みんなぁの意見聞かな」

―1945(昭和20)年に空襲があって、翌年に南海地震がきて、そこから戦後復興の足音がしだしたと、よく言われますが。

 
  
父が料亭をはじめたのが、昭和21年の春ごろじゃないかと思います。昭和20年に終戦で帰ってきたので、翌年の4月ころか。父は体も大きかったし、いろんな人が「あのお父さんやったら、身を守ってくれるかもしれん」って追っかけてきてくれて、お店は大繁盛したそうですよ。
 

―ひと言でいったら、どんなお父さんでした?

  
 
あたしらはもう、怖いっていうこともあったけど、人の世話をしたり、すごい頭が低い人でした。でも、正義感が強くって、お客さんでも間違ったことしたら、ぶったたくような人だったので。とにかく間違ったことが嫌な人でしたね。人のお世話して、お礼をもってきたら、絶対受けとらんというか。でもどっかでお葬式があったりしたら、頼まれもせんのに、人一倍お世話をしたそうですよ。中には突然で、迷惑をかけた人もいたかもしれませんが、押しかけていってでも、いろんなことを手伝ったり、考えるのが好きでしたね。  
 

―それはお祭りでも、そんな方でしたか?

 
そうですね。お祭りをつくったり考えたりするのが大好きでしたね。でも、つくり上げてしまったら、ぱっと、ほりまかすというか、一人じゃなくて、自分達でやらないかんって。父の口癖が「とやかく言うな。祭りは市民がつくらないかんき、規則をつくったり、ややこしいこといわんと、みんなでやらせ」って、ずっと言っていましたね。「俺がつくったき、俺の言うことを聞け」みたいなことを言う人ではなかったですね。でも、ただ一つだけ、「品」は残さないかんと言いよりました。「音楽も好きに変えたらいい」って、好きなように。それは武政さんと2人の考えが一致してましたね。  


在りし日の濱口八郎さん。口癖は「祭りは、市民がつくらんといかん」

―その感じが、よさこい鳴子踊りをつくったときに、娘さんが習っていた若柳流の先生だけじゃなくて、五流派の先生を集めて、お願いせないかんという発想になったんでしょうか。


そうだと思います。「みんなぁの意見を聞かないかん」と。それをよく言っていました。 

(聞き手=芳村百里香)
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