全国に流行した 植木枝盛の「民権かぞえへ歌」

高知新聞(2006.5.22)によると、歌の他にも、夏には鏡川河畔で芸者たちが「民権おどり」と繰り広げた。指導したのは植木枝盛で、彼は「民権かぞへ歌」を作っている。当時“本場”の自由民権を感じ取りたいと、各地から土佐を訪れた青年たちが持ち帰り、民権歌謡は全国に流行していったという。


写真はいずれも高知市立自由民権記念館内


植木枝盛(個人蔵・高知市立自由民権記念館提供)

そして他として以下の歌詞もあります。
  十四トセ 論じつめたら外はない 専制政治が害の本 この昔より
  二十トセ 日本の国の独立は 民の自由にあるぞえな このさきさきも
柳田国男の『海上の道』に登場する<椰子の実>は、高知の海岸でもよく見られました。柳田は大学2年の1897(明治30)年夏、三河伊良湖崎の砂浜での体験を次のように語っています。
風のやや強かった次の朝などに、椰子の実の流れ寄っていたのを、三度まで見たことがある。(中略)まだ新しい姿でこんな浜辺まで、渡ってきていることが私には大きな驚きであった。この話を東京に還ってきて、島崎藤村君にしたことが私にはよい記念である(註1)

島崎藤村作詞・大中寅二作曲の《椰子の実》は、このようにして生まれた歌でした。私の故郷である高知・須崎市の海岸でも少年期に椰子の実を拾った体験があります。 
鹿児島県の離島である中之島や奄美大島では食器や胡弓として、また福岡県比恵遺蹟では弥生人の生活用具としても椰子の実が出土しています。日本国内では生育しない椰子の実が生活用具として使用されていたことは、数多くの漂流があったことを物語っています。そして日本の海岸に東南アジアの諸島から黒潮に乗って、植物だけではなく、人間までもが漂流してきていたことは十分考えられます。ジョン(中浜)万次郎が1841年に土佐・宇佐港を出航し、足摺岬沖で漂流、鳥島沖でアメリカのクジラ船に救助されアメリカに渡ったことは、太平洋に面した南の民が、黒潮海流とともに移動していたことを物語っています。

註1) 柳田国男「民謡覚書二」『文学三ノ十』1935年10月。『定本柳田国男全集―17』筑摩書房1969年 

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