「よさこい祭り20年史」から読み解くルーツ①
よさこい祭りはなぜ南国土佐の地で生まれたのでしょうか。
それを考えていく上で手掛かりとなる資料があります。
祭りを主催するよさこい祭振興会が、四十数年前にまとめた「よさこい祭り20年史」です。
70年足らず前のこと、高知にはたくさんの資料が残っているはずだー
そう思われる方も多いかと思いますが、かつては「台風銀座」 とも呼ばれ、
毎年のように台風等の災害に見舞われてきた高知では、多くの資料が紛失、散失してしまっています。
また、よく言われるように、「豪放磊落で開放的な県民性」というのもあってか、他県と比べて、
その時々のことを、事細かく記録して保存していくことがどこか苦手な「お国柄」もあるようです。
とりわけよさこい祭りが始まった当時のこととなると、祭りに直接関わった方々の多くは既に鬼籍に入り、
ご存命の方もご高齢となり、年々当時の状況を聞き取ることが困難になりつつあります。
そうした中で、当協会では、現存する数少ない資料の中から、まずは「よさこい祭り20年史」をテキストとし、そのページをめくることから始めたいと思います。
「よさこい祭り20年史」の本文は、なぜか土佐の郷土芸能の起源から始まります。
古代、中世から近代へ。信仰の対象であった踊りや祭りー。
その系譜をたどりながら、遠隔の地とされた土佐の風俗や風土に言及しています。
後によさこい祭りは、いわゆる「神様のいない祭り」「都市型の祭り」などと称されることを考えると、いかによさこい祭りが、それまでの伝統的祭りとは一風違った、型破りのものであったかが分かっていただけるかと思います。
以下、20年史の冒頭(一部抜粋修正)からご覧ください。
土佐の踊り今昔
遠隔の地・土佐は踊りの伝統が少なく、変遷をたどることは非常に困難。伝統の踊りとして、現在、見られるのは、神楽や念仏踊り、盆踊り、太刀踊り、棒踊り、小踊りなどがある。
土佐の郷土芸能の起源は古く、古代・中世にさかのぼる。すべてが民衆の信仰の中から生まれた。信仰のための儀式や祭礼に伴う、さまざまな踊りが各地で行われていた。
信仰は、霊を慰めること(祖霊)と実りが豊かであることを神に祈ること(豊作予祝)の二つに大別される。
中世になると、各地にあった多くの芸能が、田植えの行事「田楽」に一度含められ、近世初期から再びいろいろな踊りに分かれていった。
その過程で、江戸文化の中に入ったものは芸術化され、一般に観賞する芸として発達。現在の日本舞踊や宮中神楽、歌舞伎などが生まれてくる。
一方江戸文化の影響を受けることが少なく、地方の神社や寺の奉納芸、地方民間の余興芸として定着したものがある。
これは芸術化されず、元の形をそのままにとどめたまま、神社や寺、修験者などによって、信仰の行事、布教の手段として民衆に広められていくのである。
土佐の郷土芸能は、江戸文化の影響が少なく、中世にあった踊りの形をほぼそのまま伝えているといわれ、極めて貴重である。
海辺に比べ、比較的山間部に多く残っている。一般に山間部の人たちは保守的で、物を大切に残す気性がある。海辺の人は進取的であるが、一獲千金の生活様式から「宵越しの銭は持たない」という気性。海辺に伝統の踊りが少ないこともうなずける。
いまひとつ、文化的な変遷が見られない原因として、華やかな江戸文化から隔離された風土と気質が考えられる。
文化の遅れた土佐の人々は、古代、中世の信仰からくる素朴な踊りは、ごく自然に受け入れたであろうが、近世の芸術化された江戸文化の芸能は、特定の者以外、吸収できないものであったから。 近世に入っても、祖先の霊をなぐさめる盆踊りは各地で盛んだった。しかし、初期には、執政・野中兼山の緊縮政策により、神社や寺での祭礼がやりにくくなったのと、兼山失脚後、復活はしたが、風俗の乱れによる踊りの禁止などもあって、すたれていった芸能も多かった。
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