「よさこい祭り20年史」から読み解くルーツ②
流し踊り、地方車のルーツは「花台」?
追手筋本部競演場、帯屋町筋、上町、愛宕(あたご)、 万々(まま)の各商店街…。よさこい祭りでは、各チームの踊り子が、高知市の各商店街などを練り歩く、「流し踊り」が一つの特徴となっています。観る人と踊る人の距離感はぐっと近く手を伸ばせば届きそう。炎天下、汗もぬぐわず演舞する踊り子に沿道の人たちは声を掛け、団扇であおぎながらねぎらう。そんな光景がそこかしこで見受けられます。
この観客と演者の距離感の近さこそが、祭りに一体感と迫力をもたらし、発祥の地・高知ならではのよさこいの魅力を発信するみなもとの一つになっています。この流し踊りのスタイルは、どこから来たのでしょう?
一般的には お隣、徳島の「阿波おどり」を参考にしたと言われています。ところがどうもそれだけではないようです。「よさこい祭り20年史」にこんな記述があります。それは藩政時代から明治・大正時代にとさかのぼります。
「いちじゃもの~いちじゃもの~」と、太鼓や三味線のおはやしに合わせ、練り歩いた「花台(はなだい)」と言われるものがありました。京都の祇園祭の山鉾巡行をより庶民的なものとにした…と言えばイメージしやすいかも知れません。「―20年史」では、それが、のちのち、街頭を舞台に見立てた、よさこい鳴子踊りの着想へとながっていったという、大胆な仮説?を展開しています。
踊り子を先導する地方車(じかたしゃ)が、よさこい祭りに登場するは第4回(1957年)ごろとされていますが、もともとは、三味線などを弾きながら踊り子と一緒に練り歩く人は「地方さん」と呼ばれていて、地方車が登場する前の、祭り草創期には、荷車が地方車の代役をしていたとも言われています。
大八車に創意工夫をして何層もの飾りつけをして、その豪華さや華やかさを競ったという「花台」。それと、チームごとに、より自由でユニークな表現をし、爆音響かせ先導する現在の地方車。どこか共通点があるように思いませんか。ひょっとすると「花台」をルーツとする高知ならではのDNAが、地方車へと受け継がれていったのかも知れません。
では、引き続き、「-20年史」(一部抜粋修正)をご覧ください。
信仰はあっても踊りはなかった?
多くの踊りが、霊をなぐさめることと同時に、五穀豊穣を祈る意味が多いにもかかわらず、県内第一の米どころ、高知平野に見られないのはなぜか。
土佐に伝わる踊りは、中世のものが多く、集落の中心は、山の尾根づたいに散在。このころの、高知平野はほとんどが湿地か、浦戸湾の海底であり、開けたのは近世になってからである。
芸者の手踊りに代表される江戸文化の踊りは、地方にほとんど見られない。まして藩政時代、高知平野を開拓した人たちは、長宗我部氏以来の郷士であり、武骨者の、武士あがりの、これらの人たちは、信仰はあっても踊りはなかったのである。
いちじゃもの~♪いちじゃもの~♬ 豪華さ競った「花台」
近世以降、民衆の喜び、祈りの表現は、ある面で大きな変化を見せた。明治、大正に生きた人たちにとって、昔なつかしい「花台」がある。
昭和46年夏、鏡川河畔の柳原で開催された「フェスティバル土佐・鏡川まつり」で、会場入り口に花台の模型が登場し人気を呼んだ。
近代高知の祭礼風習に最後の名残をとどめる花台は、明治から大正初期の頃まで高知の名物だった。
特別仕立ての大八車の上に四層、五層に飾られた花台は、神社の祭礼の時、町々に繰り出し、「いちじゃもの、いちじゃもの、○○の花台はいちじゃもの…」と、太鼓や三味線、胡弓ではやしながら豪華さを競い合った。 娯楽の少なかった時代、派手なことの好きな土佐の人たちにとって、この花台の出る祭礼は最も楽しい行事だった。
花台は、山内家2代忠義公の時代、2人の御用商人が長崎に出掛け、同地の花鉾を見て帰国。1664(寛文4)年、朝倉神社の大祭に両家から笠鉾を出して、驚かせたのが始まりと伝えられている。
以後、盛衰はあったが、花鉾の上に鉦や太鼓、胡弓を入れてはやしたて、人形を飾るといった様式が出来上がったのは文政の頃で、城下の町々が意匠を凝らして花台を競い合った。
花台は、太鼓のドンと胡弓のリュウリュウ…という音色をとって、「トンリュウ」とも呼ばれた。全国的に見られる郷土芸能の御神幸(=おなばれ)に余興として参加したもので、それらの中で最も豪華だったと言える。
これはのちに、発想は異なるが、よさこい節を街頭へ出した「よさこい鳴子踊り」の着想につながっている。
花台は藩政、明治にかけ「おらんく自慢」として高知の名物だった。
明治の後期、高知市中に電車や電灯がお目見え、電線電話線がはりめぐされるようになると、高い花台の運行ができなくなり、この伝統は次第に姿を消していった。 それでも大正の初期頃には、神祭などに飾られた定置花台がよく見かけられた。