「よさこい祭り20年史」から読み解くルーツ④

廃虚から立ち上がるエネルギー、祭り生み出す原動力に

高知市が「復興祭」と銘打ち、戦後初めて「祭り」を開催したのは高知大空襲から1年たった1946(昭和21)年のことでした。その後、四国巡行中の昭和天皇を迎えての南国高知産業大博覧会(南国博)などの「祭り」が毎年開催されましたが、そのテーマは一貫して「戦後の復興」「戦災からの復興」というものでした。人気を集めたのが、高知県内各地に伝わる民俗芸能やよさこい節に合わせて踊る日本舞踊でした。この舞踊は、鳴子を手に踊るよさこい鳴子踊りとは全く違ったものでしたが、「新しいよさこい踊り」と称され、戦中戦後の暗い世相の中で、一筋の光となり、よさこい祭りの構想へと受け継がれていったとされています。

よさこい祭振興会がまとめた「よさこい祭り20年史」には当時の写真が掲載されていますが、そこには、お座敷文化を継承する土佐芸妓、日本舞踊の師匠の皆さんや日本舞踊を習っていた子どもたち…その後、「よさこい鳴子踊り」の原点に直接、かかわっていくことになる方々の姿も見受けられます。

そして、その構想を具体的に固めていったのが高知商工会議所観光部会でした。そこに在籍していたのが、高知市で料亭を営む濱口八郎さんです。さらに、濱口さんの料亭に足しげく通っていたのが、濱口さんの友人であり、土佐の酒文化をこよなく愛していた武政英策さんでした。

愛媛県で生まれ育った武政さんは、中央で映画音楽などを手がける作曲家でしたが、戦災を逃れ高知に疎開し終戦を迎えました。ペギー葉山さんが歌い人気を博した「南国土佐を後にして」を世に出したことでも知られていますが、県内各地に足を運び、民謡やわらべ歌を掘り起こし、アマチュア楽団の結成に携わるなど、さまざまな分野で音楽の楽しさを多くの人々に伝えようと奔走していました。

土佐の風土に根差した「よさこい鳴子踊り」の楽曲や歌詞を、「戦後から私は土佐人となった」とする武政さんが手がけ、その振り付けを、料亭と深いかかわりにあった日本舞踊の師匠らが担当することになる一連の流れは、実は時代が求めた必然だったのかも知れません。

また、これはあまり知られていませんが、元々よさこい祭りは、市民の健康と繁栄を祈願するための「高知市民祭」の一環として開かれました。よさこいはなぜ市民祭として始まったのか、焼け残った街の一角に闇市ができ、開館した映画館には大勢の人が列をなす。戦災、震災を乗り越え、つち音が響く街で、当時の人々が前を向き歩き始めるためには、一人一人が主役となれる「新しい文化」が必要だった。廃虚の中から立ち上がろうとする市民のエネルギーが、それまでになかった、よさこいという祭りを生み出す原動力となっていったのかも知れません。以下「―20年史」(一部抜粋)をご覧ください。


「高知市民祭」の一環として、よさこいは始まった

よさこい祭りの構想がまとまるまでには、高知商工会議所観光部会において協議を重ねること2カ月余、10数回の会合をもち、概要を詰めていった。こうした機運が急速に進んだ原因のひとつに、当時の社会情勢が挙げられる。 

1953(昭和28)年後半から1954(昭和29)年前半にかけては農作物の不作、貿易振興、国際収支の悪化、金融引き締め強化などによって、全国的に不況が浸透、デフレが本格化し、県内でも各方面に深刻な影響が現れた。高知市の場合も例外ではなかったが、行政的には市の都市計画がほぼ出来上がり、市民の生活は落ち着きを見せ始めていた。 

よさこい祭りは、こうした不景気風を吹っ飛ばし、市民の健康と繁栄を祈願するとともに、夏枯れの商店街振興をうながすため、高知市民祭の一環、夏の一大行事として、毎年行うこととした。 
期間は、高知測候所で過去40年間のデータを集め、8月上旬で最も雨の少ない10~11日に行う。1951(昭和26)年から毎年8月10日に柳原で打ち上げられていた花火大会を、祭りの初日に行ない景気をあおる。祭主は市議会議長とする。県内から大勢の人出を見る「しなね祭」との合流も検討されたが、単独挙行とする…等々概要が決められた。 

ここで武政英策さんの登場となる。武政さんは当時から、土佐わらべ歌の発掘や全国の人々の喜びのリズムとして伝えられている黒潮のリズムの研究などを行い、広く作曲活動を続けていた人。 
「市民の健康祈願祭に阿波おどりに対抗するような、踊りみたいなものをやりたいが考えとうせ。祭りは8月10、11日と決まったから、今月中に頼む」と、高知商工会議所観光部会の濱口八郎さんが、武政さんを訪問したのは6月25日というから、何とも気ぜわしい限りである。 

その結果、黒潮リズムを基調とした「ヨッチョレ、ヨッチョレ…」の軽快なリズムが生まれ、土佐なまりをふんだんに盛り込んだ歌詞もできた。 
鳴子を持つアイデアを出したのも武政さんだった。年に米が二度とれる南国土佐のシンボルとして、雀追いの鳴子と、その音に目をつけたものである。 

踊りの型は、また日本舞踊5流派の師匠さんたちにたのみ、街頭を流す工夫がこらされた。 「郷土の歌や踊りは、大衆が生み育ててゆくもので、時代や人によって変わる」と言われるように、よさこい鳴子踊りも当初は行進に問題が多く、回を重ねるにしたがって改められたり、さらに新しい型が生まれてくる。
よさこい鳴子踊りは、こうしてリズムも、歌詞も、踊りの振り付けも、ともかく出来上がった。 

  • << 「よさこい祭り20年史」から読み解くルーツ③
  • 「よさこい祭り20年史」から読み解くルーツ⑤>>