「よさこい祭り20年史」から読み解くルーツ⑦

(番外編) なぜ、高知市議会の議場から始まったのか?

「よさこい祭り20年史」には、「市民の健康と繁栄を祈願する高知市民祭」の一環として、その一歩を踏み出したことが記されていました。それは、戦後の世相を考えると、説得力のあるものだと感じました。
ただ、その中で、一つだけ腑に落ちないことがありました。それは、なぜ、街頭や特設ステージでの演舞ではなく、高知市役所のしかも市議会の議場から、よさこい祭りは始まることになったのかーということです。
それぞれのチームが独自性や多様性をいかんなく発揮して、踊り子がエネルギッシュに乱舞するー今のよさこいの在り方とは、その始まりが、かけ離れているように思えて、どこか違和感?を拭い去れないのです。

「-20年史」にはそのあたりの事情があまり書かれていなかったため、「よさこい祭り40年」(史)、高知市史(稿本)、高知市議会史など関連する資料を照らし合わせて考えてみることにしました。それらによると…。

当時、高知市などの地方自治体は3割自治と呼ばれ、折からの不況もあって、新しい祭りを始める費用を捻出することが困難な状況でした。それに加え、当時、よさこい祭りは「商店街の人集め対策」と、とらえられる傾向があったようで、祭りの構想を練っていた高知商工会議所のメンバーらは、各方面の協力・支援がなかなか得られず、苦境に立たされていたと言います。

そうした時、救世主?となったのが、高知市の幹部職員や同市議会の動きでした。とりわけ市議会の中島龍吉議長らは、よさこい祭りの構想へとつながっていった南国博の開催等にも深い理解を示し、「市民の沈滞ムードを一新するには、阿波おどりのようにみんなが楽しめて、しかも永続性のある祭りが…」と全面支援を確約。
これを機に、ちぐはぐだった歯車は一気に回り始め、祭り開催1カ月前に発足する「よさこい祭振興会」にも、行政関係・各種団体・マスコミ等が名を連ねることになっていきました。

歴史に「もしも…」ということはないとよく言われますが、この時、市民の代表である市議会の賛同や後押しがなかったら…、今のようなよさこい祭りとは、また違ったものになったかも知れませんし、よさこい祭振興会を模した主催団体が各地で発足することもなかったかも知れません。
いずれにしてもこうした経緯から、当時の市議会の議事堂で、議長が祭主を務める格好で、後年、国内外に波及し、戦後始まったものでは最大級となる祭りは産声を上げました。


現在の高知市議会の議場

高知市議会傍聴記 「よさこいのルーツ伝える取り組みを!」

今はもう庁舎や市議会の議場は全面改築され、その面影はありませんが、よさこい祭りの原点に立ち返るため、先日、高知市議会の議場を訪れました。ちょうど9月定例会の質問戦の最中で、よさこい祭りの原点について、さまざまなやり取りが行われていました。以下、質問戦の傍聴記を紹介します。

よさこい祭りの歴史を踏まえた認識を問う質問に、答弁に立った岡﨑誠也市長は、市議会議事堂で市民祭として始まったことに触れながら、「よさこいが国内外に広がりを見せていることについては、鳴子を持って前進するという基本的なルールは存在するものの、踊りや衣装、音楽などはチームの個性を生かして自由に表現できる点があります。チームの踊りは毎年振り付けが変わりますが、その理由としてはよさこいには『正調踊り』という『原点の踊り』があり、いつでも原点に立ち返ることができるからだと考えます」と持論を展開。

さらに、「よさこいの何を守り・育て・発信していくべきか、さまざまな観点があると思いますが、その一つとして武政英策さんのご功績をたたえながら、正調踊りの発祥の起源やよさこい節誕生といった、よさこいのルーツを後世につないでいく取り組みが挙げられます」と話し、そのルーツを伝えることによって「コロナ禍を乗り切り、よさこい祭りが70回、80回記念大会へと着実に発展させることが大切だと考えています」と発祥の地として、その原点を継承していく必要性を強調していました。 (了)

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