「よさこい鳴子踊り」の生みの親とされる、作曲家・故武政英策さんが、晩年過ごした高知市宗安寺で、ご親族の森田繁広さん(よさこい文化協会顧問)にお話を聞きました。
武政さんは1907(明治40)年、愛媛県喜多郡肱川町(現大洲市)に生まれ、当時著名な作曲家だった山田耕筰氏らの知己を得て、指揮者・映画音楽の監督などとして活躍。1945(昭和45)年、大阪で空襲に遭い、高知に疎開、以来、地域に埋もれた民謡やわらべ歌などを丹念に採譜し命を吹き込む一方、高知市の三里地区をはじめ県内各地で市民楽団の結成にかかわるなど、よさこい鳴子踊りや、ペギー葉山さんが歌いヒットした「南国土佐を後にして」などの楽曲だけではなく、戦後高知の音楽界に大きな足跡を記しました(当協会HP「始まりの物語」のプロフィール等参照)。
その武政さんが、1982(昭和57)年12月1日永眠されるまでの晩年期、妻の故春子さんとともに過ごしたのが、高知市宗安寺の当時「宗安寺山荘」とも呼ばれた、このご自宅でした。
同市宗安寺のご自宅は、よさこいの演舞が行われる市内中心部から北へ車で30分弱、同市北部の鏡川中流域の山あいにあり、武政さんご夫婦は一見、不便とも思えるこの場所から臨む、土佐の山里の眺めが気に入り、この地に、最後となる庵(いおり)を結んだと言います。
武政さん没後、妻・春子さんは、宗安寺の自宅を全国各地のよさこい人のための「武政英策記念館」にと切望。高知市などとも相談しましたが、実現することはありませんでした…。
一方、子どものいなかった武政ご夫妻は晩年、最も近しいご親族として、姪の広子さんとその夫の森田繁広さんを頼り、まるでわが子のように接したと言います。十数年前、広子さんが病気を患ってからは、夫の森田さんが、おば・春子さんらの遺志を継ぎ、今も宗安寺の家屋敷や敷地内にある墓所を守り続けています。
縁あってやってきた高知の地で生み出した高知のリズム・高知の歌―。「『森田くん、よさこいはこのままでは終わらん。もっと若い人が参加して、どんどん変わっていく…』―。生前の武政さんの言葉が今も忘れられないと語る森田さん。武政さんご夫婦がこよなく愛した宗安寺の旧山荘で辿る「武政英策物語」をお届けします。
宗安寺の旧山荘で辿る「武政英策物語」 ~甥・森田繁広さんに聞く~(前編)
宗安寺の旧山荘で辿る「武政英策物語」 ~甥・森田繁広さんに聞く~(後編)
(次回に続く)