「踊りと共に20年」
20回、一口には言えるが大変なことで、よさこい鳴子踊りがここまできたのは一般の人たちはもとより、関係各方面の方々の支援と協力によるものである。
第1回を迎えるに当たっては当時、高知商工会議所観光部会を中心に多くの方々の苦労があった。私も同観光部会に籍を置いていた関係で、準備に駆けずり回った一人であり、直接担当した「踊り」について述べてみたい。
よさこい鳴子踊りはリズム、鳴子のアイデア等に武政英策氏の力によるものであるが、踊りの振り付けを行なった日本舞踊の五流派、花柳、若柳、藤間、坂東、山村の師匠さんたちの功績は大きく、これからもいっそう協力を願わねばならない。
20年前、この踊りの誕生は難産であった。「要は街頭踊りであるから、回ったり、さがったりしていたのでは具合が悪い。前進、前進…」と再三再四注文をつけるが、師匠さんたちの振り付けはともすれば見て優雅な舞台踊りになってしまって前へ進まない。なにせ、期間がないので一回目はしかたがない、と手を打ったのが「三歩進んで、くるりと回って、一歩さがってチョン」という型であった。しかしながら、一歩さがってくるりと回って…では、とても街頭を流すわけにいかず、しばらくは舞台を設置。その後、踊り子たちの創意くふうやテレビ放映などによって、前進一方の踊りへと変化、また47、48年とニース・カーニバル遠征に至っては鳴り物なしのより単純な型も誕生した。
だれにでも踊れる素朴、単純な踊り―、これは関係者が当初から求めたものである。阿波踊りが「あわーの、とのさーま…」とやっていたのでは、とても現在のような大衆の心をとらえた街頭踊りにはならない。「踊るアホウに、見るアホウ、おなじアホウなら…」と、元の歌、踊りはすっかり忘れられて、ハヤシだけになっているのである。よさこい鳴子踊りにしても、将来は歌も曲も忘れられ、掛け声だけで踊るようになってこそ、真の民衆の心の踊り、街頭踊りと言えるだろう。
現在、よさこい鳴子踊りの型には賛否両論がある。この踊りを民謡踊りと見るか、街頭踊りと見るかの見解の相異によるものである。民謡踊りは足、手の動作がビシッとそろい、優雅さが求められるが、街頭踊りは型にこだわることなく、リズムに合って前進すればよく、見る人、踊る人、すべての人々がアホウになって、踊りに酔いしれるものでなければならない。
かといって、舞台踊り的な元の型をぜんぶ捨ててしまえ、と言うものではない。優雅な踊りにはそれなりの良さがある。県外のお客さんに見てもらうための踊りとして残してゆくことはけっこうである。
20年を迎えたよさこい鳴子踊りも、参加団体の経費過負担や県下全体の踊りへの脱皮など、難問が山積している。ここで市民、関係者が一団となって、さらに飛躍発展することを切に希望する。
高知商工会議所観光部会副部会長 濱口八郎
よさこい祭り20年史(よさこい祭振興会)より