武政英策(たけまさ えいさく)



1907(明治40)年9月18日愛媛県喜多郡肱川町(現大洲市)生まれ。作曲家。 

東京電気学校在校時から音楽への情熱止みがたく、音楽学校で学ぶうちに、のちに「赤とんぼ」の作曲で知られる山田耕筰と知り合い、18歳の時に東京大学文学部美学科狸穴分校に研究生として入校。山田耕筰から作曲法を門馬直衛から作曲理論を学ぶ。 

1937(昭和12)年NHK京都放送局和洋管弦楽団初代指揮者となる。前後して新興キネマの映画音楽監督も務める。太平洋戦争開戦時、招かれて大阪大学航空学研究室で研究員となり、低速飛行機などの開発にあたった。 

鳴子のリズムは土佐本来のもの 

1945(昭和20)年大阪で空襲に遭い自宅が焼失、妻の実家があった現在の南国市に疎開した。 

終戦後は中央からの誘いを断り「高知で音楽で生きていこう。高知に音楽の輪を広げよう」と決意。アマチュアバンドの育成に奔走する一方、クラシックからポピュラー、社歌など幅広く作曲。また県内をくまなく回り、民謡、わらべ歌等の採譜に打ち込んだ。 

代表作として『南国土佐を後にして』『よさこい鳴子踊り』などがあり、土佐の名を一躍全国に高めた。 

「『よっちょれ』と鳴子のリズムこそ土佐本来のもので、土佐のみの持つニュアンスがある。本当の『われわれの鳴子踊り』をつくりだし、育てあげていただきたい」「郷土芸能は民衆の心の躍動である、よさこい鳴子踊りにしても、これからどんなに変わってもかまわない」として、楽曲の自由なアレンジを許した。これらのことは、よさこい祭り発展の原動力となった。その功績をたたえ、よさこい祭りに「武政英策賞」が設けられた。 

1982(昭和57)年12月1日 高知市宗安寺の自宅で死去、75歳。 

〈年表〉 
1907(明治40)年 愛媛県喜多郡肱川町(現大洲市)に生まれる 
1922(大正11)年 15歳 東京電気学校入学 
1930(昭和5)年 23歳 山田耕筰のアドバイスを受け定職に就くため京都へ 
           機会設計の仕事で大いに稼ぐ
1937(同12)年 30歳 NHK京都放送局・和洋管弦楽団初代指揮者に任命
           される。前後して新興キネマの映画音楽監督も務める。
1941(同16)年 34歳 戦時が近づき映画の世界を離れ、招かれて大阪大学
           航空学研究所で低速飛行機やオートジャイロの研究を
           行う[太平洋戦争開戦] 
1945(同20)年 38歳 空襲で大阪都島区の自宅焼失。
           音楽関係資料を多数失う。同年、妻・貴美恵さんの養家・南国市十市に避難、
           1週間後に高知空襲。年の暮れ、高知市三里小にピアノを弾きに行く。
1946(同21)年 39歳 高知市仁井田に自宅建設 
           地元青年団を中心とした楽団砂地メロディアン誕生。
           夏、三里小講堂にて発表会。以後、種崎造船所「レッドスクーナー」、土電、
           四電配電、国鉄労働組合楽団、本山・スミレ楽団、安芸・白バラ楽団、枝川、
           日高、室戸の青年団、高知市警音楽隊(のちの県警音楽隊)県庁・県職バンド、
           県交通バンドなど、次々と高知県内にバンドを誕生させていく。 
1952(同27)年 45歳 妻・喜美恵さんの死去、このころ、歩兵第236連隊(鯨部隊)の
           愛唱歌「南国節」をもとにした「南国土佐を後にして」完成。春子夫人と再婚 
1953(同28)年      ラジオ高知開局 「土佐童歌」「ラジオ歌謡」開始 
1954(同29)年 47歳 新民謡「七夕音頭」作曲、「よさこい鳴子踊り」作曲依頼あり 
           第1回よさこい祭り始まる 
1955(同30)年 48歳 NHK高知「ふるさとの唄」で「南国土佐(丘京子)」が流れる
           交響詩曲「土佐」作曲 (NHK高知放送局KL増幅記念) 
1958(同33)年 51歳 県民ホール、NHK「歌の広場」ペギー葉山が
           「南国土佐を後にして」を歌う 
1959(同34)年 52歳 ペギー葉山「南国土佐を後にして」大ヒット 
1960(同35)年 53歳 高知県文化賞受賞 
1962(同37)年 55歳 7月20日より町田佳声と県下を民謡採譜(県西部1週間) 
1964(同39)年 57歳 高知県マンドリンクラブ新春演奏会 
1967(同42)年 60歳 交響詩「古事記の伝説による四国創生」NHKにて全国放送 
1968(同43)年 61歳 「四国の子守歌による幻想的交響詩」全国放送 
           松山放送交響楽団(武政指揮) 交響詩「四国霊場遍路」作曲 
1973(同48)年 66歳 交響詩「珊瑚」作曲 4月11日日比谷公会堂にて
           東京交響楽団で演奏 
1974(同49)年 67歳 交響詩「四国路にて」作曲 
1975(同50)年 68歳 胃がんによる大手術 (~3年半の闘病) 
1977(同54)年 72歳 高知新聞に「歌ありてこそ」連載(~3年間) 
1982(同57)年 75歳 宗安寺の自宅で死去 

〈参考文献〉
『歌ありてこそ』武政英策著(高知新聞社╱2000) 
「土佐ふるさとのうた〜武政英策没後10年記念コンサート」パンフレット(高知市文化振興事業団╱1991)
『武政英策作品集土佐ふるさとのうた』(高知新聞社╱1983年)