【きいて知る】濱口賀世さんが語る!父・濱口八郎の物語①

よさこい祭りの生みの親の一人、故濱口八郎さんを父に持つ、料亭濱長・大女将の濱口賀世さん。八郎さんが奔走された姿を、次女として間近で見てきた賀世さんが語る、よさこい祭りのもう一つの「始まりの物語」―。祭りができる前のこと、当時の情景、盟友だった故武政英策さんとの交流、鳴子にまつわるエピソード、よさこい祭りを導いた父八郎さんの思い、そして後世に託そうとしたこととは…。今しか聞けない、貴重なお話を賀世さんにおうかがいしました。

 

(聞き手=芳村百里香)


よさこい祭り生みの親の1人・故濱口八郎さんについて、インタビューに答える次女の濱口賀世さん(高知市内の自宅)

▶よさこい祭り「前夜」 南国博から阿波おどりへ 

―高知商工会議所観光部会の役員であったお父さまの八郎さんは、よさこい祭りの創設に深くかかわっていらっしゃるとお聞きしました。そのことについて、お話をお伺いしたいです。まず、よさこい祭りが始まったのは、1954(昭和29)年でしたが、賀世さんは当時おいくつでしたか?


私が昭和17年の生まれなので、ちょうど小学校の高学年か、中学校にあがったころだったと思います。 


昭和25年に開かれた南国高知産業大博覧会。鳴子を持たないよさこい踊りが披露された

―第1回目のよさこい祭りにも参加された?


そうなんです。昭和21年から料亭濱長と名乗りましたけど、それまでも父と母は「おでん屋濱口」というお店を営んでいて、父の人柄なんかもあり、5,6歳のころから姉と日本舞踊を習っていたんです。
で、昭和25年に、高知市主催の復興祈願を目的とした「南国高知産業大博覧会」が開催され、今までお座敷のものだった“よさこい節“を街頭へ出そうということになり、父が日本舞踊の先生方に依頼をして、踊りの型を作ってもらって披露したんですよ。私たち姉妹は、その南国博にもずっとかり出されてまして、高知城の下や、鏡川の上にステージを作ったりして、披露したのを覚えています。姉とさらしを巻いて踊りましたね。
初めてテレビというものを体験したのもこの時でした。「賀世ちゃんが踊ってるの、見たでー!」って。そんな時代でした。 


小学生だった賀世さんも南国博に参加


表彰式では花束贈呈の大役も…

―へえー!よさこい祭りの前に、南国博でよさこい節を披露されていたんですね!それがよさこい祭りの4年ほど前?


そうだったと思います。で、よさこいの前の年の昭和28年に徳島の池田に招かれたりして、よさこい踊りを披露したりもしましてね。でも、阿波おどりに参加した際に「やっぱり阿波おどりのような、活気あるなんかをつくりたい」という話になったんですよ。 

―阿波おどり!よく参加されていたんですか?


2、3回参加した?そんな記憶ですね。飛び入りだったのか、事前に父が申し込んでいたのかは定かではありませんが、みんなで衣装を着て、なにか踊ったのを覚えています。父は踊ってないですけど、お祭りが好きだったんで、やっぱり阿波おどりのような、街を練り歩くようなもんをつくりたい、市民を巻き込んでやりたいって話になったんですよ。そこからはもう、すごかったですよ。
その当時、私は濱長に住んでいたんですけど、毎日いろんな人がうちへ来てワイワイ。日本舞踊の先生方も来られて、「あーでもない、こーでもない」って。あたしら姉妹は踊りをやってたもんだから、先生方に「ちょっとこれ踊ってみてー」って言われて、「やっぱり、こっちの振りー」って。そんな形で、第1回目のよさこい祭りの制作から本番にも携わりました。 

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