【きいて知る】濱口賀世さんが語る!父・濱口八郎の物語④

▶濱長で毎晩語らった、武政さんと八郎さんの友情

 

―作曲家・武政先生のお話が出ましたけど、お父さまと武政英策さんとはどのような関係でした?

 
 
平たく言えば飲み友達でした。父はあまり飲まん人でしたけど、武政さんは毎日濱長へ飲みにきていました。 
 

―飲み友達!

 
 
最初はお客さんだったと思うのですが、父は、新しいことを取り入れて人を喜ばせるのが好きだったので、有名な作曲家の先生が高知に来られたと知り、芸者さんに新しい民謡とか高知の歌とかを習わせたいんで、いろいろ話を聞いてたんだと思います。で、父も武政さんも話すのが好きやから、いつの間にか、毎日来られるようになっていたように思います。父は声が大きいので、いつも話が聞こえていました。私の記憶にある武政さんは、濱長の座敷ではなく、玄関入ってすぐのところにある、働いている人たちの控えの間みたいな、お帳場の横に6畳くらいの小部屋があったんですが、そこにいつも座っていらっしゃいました。

―お帳場に?そこって、お客さんではなく、身内とかお店の関係者の方がいらっしゃるイメージなんですけど。

 
 
そうなんですよ。なのでとても覚えています。 




濱長のしおり。よさこい鳴子踊りなどとともに武政英策さんが濱長のためにつくった「浜長節」が

―ご飯やお酒を飲みにくるのではなく、八郎さんとお話しされに来ている感じだったのでしょうか。

 
 
そうだと思います。父も話だしたら長い人だったので、あーでもない、こーでもない、っていろいろ武政さんに構想を話していたんだと思いますよ。だからお客さんという垣根を越えて、父ととっても仲良しでしたよ。よさこい祭りを始める時も、2人は「お願いします」と言わんでもいいような間柄の友達だったんだと思います。 
 

―いつくらいから、武政さんは濱長へ来られていたんでしょうか。

 
 
記憶は定かではないですが、少なくとも、よさこい祭りの前、阿波おどりに行っていたころには、もう来られてたと思います。 

―なるほど。じゃあ、よさこい祭りの構想なんかも一緒に考えていたかもしれませんね。

 
 
そうですね。急に商工会議所から決まったって話になってますけど、それまでにも、うち(濱長)で、そんな話をしていたのかもしれませんね。 

―よさこい鳴子踊りの曲を作ってほしいって武政さんに頼んだのは、八郎さんですか? 

 
そうです。父は商工会議所観光部の仕事もしていたし、そういうお祭り好きの性格だったんで「そういうの得意やろ、やってくれー」って言われたみたいですよ。 
 

―なるほど。曲も歌詞も武政さんが考えられたんでしょうか?

 
 
曲は全部武政さんですけど、高知の方言をうんと入れろう(たくさん入れよう)っていう提案は父がしていた記憶ですね。

(聞き手=芳村百里香)
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