▶大人の手のひらサイズで ずっしり重かった原点の鳴子
―振り付けの制作段階で、鳴子は持っていらっしゃったんですか?
最初のときはどうやったやろ、ちょっと記憶、薄いけど、でも試作はしてましたね。試作品の鳴子は、すっごく手が痛かったのを覚えています。角も今みたいに丸くなくて、ごつごつしていて、持っていたら手に傷がつくような。で、「これはいかんね、変えないかんね」って。それから、すごく重かったことも覚えています。持つとずっしり重かった。面も大人の手のひらくらいに大きくて、とっても持ちにくかったですよ。
―鳴子の面がですか?!それはとっても大きいですね。
そうなんですよ。今の鳴子は、鳴らすといい音がなりますけど、最初は釘で打っていただけなんで、がちゃがちゃっとした音がなりますし、振ったら、バチがばらばらっとすぐ外れる。試作品の鳴子はそんな鳴子でした。
―貴重なお話ありがとうございます。今とは全然違うわけですね。ちなみに、最初から鳴子は楽器のように鳴らそういう構想だったんでしょうか。
もちろんです。そんな話をしていましたね。音楽家の武政先生と父がよく、うち(濱長)で話していたんですけど、2人で「高知は阿波と違って歴史がないき、手踊りやなく、なんか使って派手にせないかん」って話してましたね。で、「何か楽器を持たすか」って話をしていましたけど、武政先生が言いだしたか、父だったかは覚えていませんけど、「高知は二期作やき雀おどしのようなものがいいかもしれん」って。で、試作品を安藝さん(安藝弥太郎さん=当時、高知市の京町商店街で「高知漆器」営む)やのもと木工さんに、こういったものをつくってくれってお願いしてつくってもらった記憶ですね。確か、雀おどしは竹やけど、竹ではいかんとか、そんな話を二人でしていたのを覚えています。最終どのようにして、今の形に決まったのかは覚えていませんけど。 父は、鳴子をよさこいに使うことについて「このガチャガチャいうのが、賑やかでえい!祭りが賑やかやないと」と喜んでましたから。
武政英策さんがよく訪れた高知市旧八百屋町の濱長
―なるほど。本番用の鳴子も、1つのところではなく、いろんな方々がつくってくださったんですか?
そうだと思います。第1回目からたくさんのチームが出ていたので、いろんな所にお願いしたのではないかと思いますよ。