宗安寺の旧山荘で辿る「武政英策物語」 ~甥・森田繁広さんに聞く~(前編)

▶亡くなられて気づかされた作曲家・武政さんの偉大さ

―森田さんは武政さんと出会われた時、武政さんがよさこいの楽曲を作った方というのはご存知だったんでしょうか?

まったく知らなかった。女房も、なんちゃあ言わんかったから。 

―そうだったんですか。結婚された当時が1973年ころでしたら、よさこいがはじまってから20年くらいでしょうか?

そうだったと思います。で、おじちゃんたちが自分たちの結婚式に来てくれた時に、女房のお姉さんから「繁広さん、知っちゅう?この人(武政さん)、高知では、わりに有名な人で」って。
 

―そのお話、素敵ですね(笑)。当時だと、もう「南国土佐を後にして」も世に出されていましたものね。

そうですね。おじちゃんが亡くなったんは1982年でしたけど、「武政英策」がすごい人やって思ったのは、実は、おじちゃんが亡くなってから何年もたってからのことやった。 
 

―そうなんですか。それはいつごろです?

おばちゃんが亡くなってしばらくしてから…。よさこい祭りが60年を迎えたころからですね。 
 

―春子さんがお元気だったころは、武政さんのことはお任せになられていたんですね。でもよさこい60周年って言ったら、2013年ころ?最近じゃないですか。

そう。60周年っていうことで、高知の放送局はもちろん、BSやら関西の放送局やら、たくさんの方々がここに取材に来られてね。私ひとりで対応しなくちゃならなくて困りましたよ(笑)。おじちゃんが亡くなって、ここに住むようになってから、「南国土佐を後にして」とか、よさこいの「じんまもばんばも」とか、土佐のわらべ歌とか、だんだん知識が入ってきて…。ここから少し下がったところに、おじちゃんとおばちゃんのお墓があるんですが、正直ここへ来たときは、とにかく、この宗安寺の家を守らないかん、おじちゃんのお墓を守らないかんっていう思いで、そうした音楽のことまで気がまわっていませんでしたね。 

(高知市宗安寺の武政さんと妻春子さんの墓所)