宗安寺の旧山荘で辿る「武政英策物語」 ~甥・森田繁広さんに聞く~(後半)

▶武政さんご夫婦がこよなく愛した宗安寺の地

 

―武政さんご夫婦のお墓、お参りさせていただきましたが、この宗安寺の地にお墓を、というのは、武政さんのご遺志ですか?

 
そうなんです。おじちゃんが亡くなる前に、おばちゃんにそういった話をしていたそうです。 
 

―武政さんは、最後病院ではなく、この土地でっていうご意向でしたし、とてもこの土地を気に入っていらっしゃったんですね。

 
そうですね。2人で住む場所を探したそうなんですが、高知市内を何カ所か見てまわって、ここが一番えいってことになったそうです。おばちゃんが、裏千家でお茶をやっていたので、縁側に大きな真っ赤な傘を出して、その下に台と、真っ赤な生地を敷いて、生徒さんとお茶会をしていましたね。 ここへ上がって来られる時、東屋(あずまや)があったでしょ。今はもうぼろぼろですけんど。あれ、以前はお茶室だったんです。当時は、きれいな若い女性が着物を着て、お茶を習いに来てたんですよ。で、お茶を習った後に、みんなで集まって、ここの「宗安寺山荘」で懐石料理を食べてもらう、そんな時代もありましたね。


(当時、武政さんの妻・故春子さんがお茶をたてていたというお茶室)

―自然豊かな場所なので、赤い傘が映えそうですね。

 
そうなんです。おじちゃんが亡くなって、私がここに引っ越してからは、おばちゃんがよくお茶を誘ってくれましてね。私あんまりお茶に興味がなかったんですけど、「森田君、ここへ来ぃ。私がお茶を教えちゃおー」って。そんなこともありましたね。 
 

―私はまだ2回しかここへ来たことはないですけど、とっても落ち着く雰囲気で、素敵な場所だなと思います。

 
そうでしょう。私自身、この宗安寺という場所に縁があったのかなって思うんですけど、前の川(鏡川)があるでしょ?実は小学生のころに、よく来ていたんですよ。川エビとか、ウナギとか、鮎とかを突いたり、よくキャンプにも来ていたんですよ。

(武政さんもよく散策したという高知市宗安寺の鏡川沿い)

―そうなんですね!武政さんとのご縁で、森田さんご夫婦が今、ここに住んでらっしゃるっていうのは、素敵なお話ですね!武政さんもその川沿いを散歩されていたっていうエピソードを聞いたことがありますが。

 
作曲の気分転換に出たのかもしれませんね。なんせ静かでしょう。車の音もしない。この環境がおじちゃんにとって、良かったんじゃないでしょうか。

おじちゃんが亡くなってからしばらくして、おばちゃんも歳がいくじゃないですか。ここから下りて、高知市の神田というところに住み始めたんです。おばちゃんに「宗安寺の家はどうなっちゅう?」って聞いても、「あそこに上がったり、下りたりできんから、もうあそこには帰らん」と。で、ここへ来ててみると、もう人が住めるような状態じゃなくて、冷蔵庫の中のもんも腐ってて。それで休みのたびに、私がここへ上がってきて、全部片づけて、それで、女房と一緒に家族で住むようになって。

―それは武政さんが亡くなられて、どれくらいたったころですか?

7、8年くらいですかね。それから、おばちゃんを車で迎えに行ったんです。そうすると、おばちゃんが「森田くん、きれいになったねえ。お願いがあるがやけんど、私もここに帰ってきてもいい」って。「おばちゃん、何を言いゆう。ここはおばちゃんの家やんか」と言うて、それからずっと、ここ宗安寺で、おばちゃんは2007年に亡くなるまで、私たち家族と一緒に暮らすことになったです。

―春子さんも、最後はまた、こちらに…。

おじちゃんは社交的で交友関係も広くて、お酒の席が好きな土佐人のような気質で、お金のことなんかには無頓着な方だったようです。その分おばちゃんは苦労したこと多かったと思うので…。最後は、宗安寺にもう一度、戻って来られたんで、喜んでもらえてたんじゃないでしょうか。この向こうの部屋でよく、おばちゃんは、一弦琴弾いたりして楽しそうに過ごしてましたから。