宗安寺の旧山荘で辿る「武政英策物語」 ~甥・森田繁広さんに聞く~(後半)

▶見届けたかったよさこい祭り「どういう風に変わっていくろう」


―まさか武政さんの晩年お過ごしになり、墓所がある地で、こんな貴重な話を聞けるなんで思ってもいなかったので、とても感慨深いです。

 
若い人によさこいを踊ってもらって、本当におじちゃんは喜んでると思いますよ。おじちゃんは凄く派手好きやったき、「森田くん、このままじゃいかんぞ。もっともっと若い人に参加してもらって」ってよく言ってましたからね。
やっぱり最初のころは、女性も男性も浴衣を着て、普通の盆踊りみたいやないですか。それから年々進化して、今の状態になってきた。そら、おじちゃんも喜んでると思います。 
 

―そのお話を聞けて、うれしいです。とっても。

 
おじちゃんは口をすっぱく言っていました。「わしはそれだけが心残りじゃ」って。「本当は、もっともっと長生きしてよさこいを見届けたい。どういう風に、よさこいが変わっていくのか。どういう風に認められていくのか」って。今の状態だったら、おじちゃんは本当に喜んでいると思いますよ。 
 

―「歌ありてこそ」(武政さん自伝)に「南国土佐を後にして」の記述は多いんですけど、よさこいの記述が思ったよりも少なくて…。なので、武政さんのよさこいに対する思いを、聞いてみたいって、ずっと思っていたんです。

 
もうちょっと長生きしたらよかったけどね。おじちゃんも。75歳やったき。よさこいに関しては、ずっと将来を案じちょった。 


(在りし日の武政英策さんと妻の春子さん)

―そのお話は、晩年、病院からここへ帰ってこられてた時におっしゃっていたんですか?

 
そうです。病院から帰ってくる時やったかな?長くもたんって言われて、私もここへ上がってきて。もうそうなったら、作曲の話はせん。よさこいのことだけよ。「どういう風に変わっていくろう。どういう風に世の中に認められるろうか」って。その時点では、県内の郡部なんかにも浸透していましたが、よさこいはまだ高知県、高知市だけのイメージやったき、それが今では、すごいやないですか。全国から海外まで広がって行ってますから。 
 

―お構いなければ、武政さんの最後のご様子を…。

 
残念ながら、直接、おじちゃんの最期を、看取ることはできませんでした。私ら夫婦はその当時、まだ市内の市街地に住んでいたので、連絡を受けてから急いでここへ駆けつけましたが…。私も心残りがあってね、おじちゃんとおばちゃんが元気な時に、もっとたくさんの話を、ちゃんと聞いておけばよかったって。そうしておけば、今、皆さんにいろんなこと、伝えられたのにって。それだけが心残りですね。
12月1日はおじちゃんの命日です。またいつでもおいでになってくださいね。おじちゃんがつくったよさこいを、こんなに愛してくれている若い方が、こうやって宗安寺の地まで足を運んでいただいたこと。おじちゃんは何よりもそれを喜んでくれると思いますので。

(聞き手・芳村百里香)
(了)

       



宗安寺の旧山荘で辿る「武政英策物語」 ~甥・森田繁広さんに聞く~(前編)