いなぐ・おごじょ→ハチキン 土佐の文化は黒潮に乗って運ばれてきた
「黒潮が文化を伝えた」(高知新聞 1990.7.1)では、
何千年にも渡ってその名を持たず、水の砂漠といわれた太平洋。しかし、土佐にはその黒潮に乗り、自由に海を闊歩したウランドウ(浦戸)たちがいた。土佐の文化は、さまざまな船に乗って運ばれてきた。
と海図が残した歴史を論じている。また高知新聞社・琉球新聞社・南日本新聞社企画『われら黒潮民族』(1992年 高知新聞社)でも黒潮との関係が論じられています。
高知市浦戸から望むー黒潮洗う太平洋
黒潮は地球の自転で太平洋の西側の流れが速くなると言われています。台湾近くでは時速約10㎞であり、熱帯の高温水を携えて短時間で琉球弧をえぐり、日本本土にまで押し上げる役割を果たしています。そのため黒潮洗う足摺岬周辺海域では、真冬でも摂氏16~18度です。この速い流れと温水が、さまざまな文化を人とともに運んだことでしょう。さらに南海上で発生した台風が、琉球弧を洗って本土に至るのも、黒潮潮流に似たコースをとる場合が多い。また黒潮の暖流は女性の性格・生き方にも大きなインパクトを与えているようです。
海洋民族といえる海との関わりを強く持つ黒潮の民は、男性が海に、女性が陸に生きる形が共通しています。女性は芯が強く働き者であり自立し、情熱的で積極性も兼ね備えています。その呼び名は沖縄で<いなぐ>、鹿児島で<おごじょ>、高知で<ハチキン>として知られています。
さらにそれは女性から男性へ求婚する習慣があったことにも表れています。沖縄県八重山地方では<ミンサ-〉、高知では〈紅しめ〉が、女から男に贈られるという男女関係が確立していましたし、〈通い婚〉さらには〈若者宿(娘宿)〉も、特に黒潮の道の沖縄・鹿児島・高知・和歌山熊野に敗戦(1945年)前後まで残っていました。
そしてカツオ・さつまいも・さとうきびなどの食文化や、バリ島の〈スンバ織〉と沖縄の〈ミンサ-〉の類似性などから、黒潮の道は単なる点の存在ではなく、太い線の連続であると考える方が自然です。