「よさこい祭り20年史」から読み解くルーツ③

空襲、南海地震…相次ぐ災難  祭りのルーツに「復興」の2文字

「商店街の夏枯れ対策として始まった」「阿波おどりに負けない祭りをつくろうとした」…。よさこい祭りのルーツを巡っては、さまざまな見方が紹介されていますが、ここでは、ちょっと視点を変え、祭りが始まる少し前に時計を戻し、そこで暮らしていた人々の思いに寄り添いながら、その答えを探ってみたいと思います。
「よさこい祭り20年史」は、土佐の民俗芸能や花台(はなだい)といったものに言及しながら、よさこいが生まれる土壌となった「土佐の風土」について多くのページを割いています。その上で、1945(昭和20)年の終戦を期に、戦後の高知の歩みとよさこい祭りの生い立ちについてつづっています。「―20年史」に、「高知市史(稿本)」や同市の戦災復興史などの資料を重ね合わせると、当時の人々が何を想い、どんな暮らしをしていたのか、より鮮明になっていきます。

1945年7月4日未明―。高知市の市街地は一瞬にして焼け野原となり、ビルも民家も、跡形もなく灰となりました。鳴り響く空襲警報、無数の焼夷弾が降り注ぎ、逃げ惑う人々…。のちに、これは「高知大空襲」などと呼ばれますが、この空襲により、高知市中心部は壊滅的な被害を受けました。さらにその翌年の1946年には、安政の大地震から92年ぶりとなる南海地震が高知の街を襲いました。それらの被害がいかに甚大なものだったかは、全国の戦災都市に先駆け、同市の復興計画が、国の第1号認可を受けたことからも読み取れます。

度重なる災難を、当時の人々はどうやって乗り込えていったのでしょうか。「食べていくのが精いっぱい…」。そんな暮らしの中で、終戦から9年目の夏、よさこい祭りは産声を上げます。
その間の記述で、「-20年史」に何度となく出てくる言葉があります。それは「復興」の2文字です。阪神・淡路大震災、東日本大震災に遭われ被災された皆さんが、今もなおそうであるように…。「-20年史」を丹念に読めば読むほど、「復興」の2文字を抜きに、よさこい祭りのルーツを語ることはできないのではないか、と、思えてきます。以下、「-20年史」(一部抜粋)をお読みください。


戦災直後の高知市中心部

よさこい祭りの生い立ち

廃虚の中から 

第2次世界大戦も深まった1945(昭和20)年7月、高知市は米空軍のB29爆撃機によって、市街地のほとんどが廃虚と化した。 
そして終戦、翌1946(昭和21)年の南海大地震と重なる不幸な出来事の中、物資不足にあえぎながら再建への苦しい闘いを始めた。 
次第に落ち着きを取り戻していく世相の中で、民衆の心に芽生えてきたものは、心の安らぎ、歌や踊りなど娯楽への渇望であった。 
1947(昭和22)年、高知市では第1回復興祭が催された。市民の閉ざされた心をやわらげ、復興への意欲を盛り立てようというものだった。テーマ音楽なども用意され、できるだけ陽気に「お祭りさわぎ」。しかし、歌は民衆の心に残らず、祭りがすむと忘れられてしまった。  「復興祭」という趣旨の催しは、その後、毎年開かれた。1950(昭和25)年3月、高知市の主催で復興祈願を目的とした「南国高知産業大博覧会」が開催された。 関係者の間でテーマ音楽について議論を重ねた。 

「よさこい節」を街頭に

「復興祭の例でも分かるように、歌をあまり歌いたがらない高知では、何回作っても同じだ。それより、『よさこい節』を街頭へ出そうじゃないか」というのが結論だった。 
博覧会のテーマ音楽がよさこい節と決定。古くから伝わる土佐の民謡だが、歌だけでは面白くないと、日本舞踊の5流派(花柳、若柳、藤間、坂東、山村)の各師匠さんたちに依頼して、踊りの型を作ってもらい、よさこい節が初めて街頭に出た。
(※注=この時の踊りの型は、現在の「よさこい鳴子踊り」とは違い、いわゆる「手踊り」と呼ばれる鳴子を持たない日本舞踊だった)

こうした着想は、博覧会で成果を上げ、次第に一般にも広がって、1953(昭和28)年には芸者、中居、素人も加わった「よさこい踊り子隊」が徳島県の池田まで招かれていくことになった。 
池田でも評判は良かったが、やはり、あのにぎやかで力強いリズムの「阿波おどり」に立ち向かうには、よさこい踊りはあまりにやさしく、お座敷的でありすぎた。 
5流派の師匠さんたち、関係者にとって、これがよい刺激となり、また契機となって、翌1954(昭和29)年4月になると、高知商工会議所観光部会が新しい踊りの型による「よさこい祭り」の構想を打ち出したのである。

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