【きいて知る】濱口賀世さんが語る!父・濱口八郎の物語⑤

▶1回目の風景 三味線に鉦、衣装は菅笠・法被さまざまで

 

―よさこい鳴子踊りができていく過程で、覚えていることを教えてください。

 
 
そうですね、濱長での練習のことは覚えていますね。で、「踊りの師匠らが輪踊りしているのを、はやくおぼえなさい」って言われて、後ろで踊ってました。当時は輪踊りでしたよ。今は原型がほとんどないけど。で、父が「もっと阿波おどりみたいに、一列でいけんかのう」って言っていましたね。当時は、はりまや橋のところでやぐらを組んだから、盆踊りなんですよ。  
 

―でも1回目のよさこい祭りでは、多少、流し踊りもされたんでしょう? 

 
もちろん。でも今みたいなのとはちょっと違って、お店の前で踊るとか、そんな時に、みんなそこを通ることを知ってたから、店の前にみんながお酒やらジュースやら置いてくれちょって、それをいただいて飲んでしてましたね。 
  

―へえー!今みたいに、どこの会場に行って、こっちからこう踊ってっていうのは決まってなかったんですね。

 
 
そうです。例えば濱長の前にも来てくれてましたけど、先達さんが「濱長さんの前で踊らせていただきまーす」って言うたら、麦茶とか用意しておくんですよ。何組か来てくれると思うんで。そしたら、ほかの方々も、濱長さんところ行ったら、お祝儀もらえる、お酒もらえるって思ったら、チームが来るんですよ。 
 

―じゃあ、みんなで練り歩いていって、どこどこ商店さんの前で踊りまーすっていった感じだったんですか? 

 
そうです、そうです。音が聞こえたら、店の中にいるお客さんも出てきて、拍手して、みんな疲れたろうっていって、ビールをあけたり、一升瓶あけたり。 
 

―お祭りの風景ですねー!地方車はその当時なかったんですか? 

 
なかったです。みんな一緒に、人についていく。阿波おどりと一緒でしたね。三味線と鉦(かね)とか、でしたね…。 
 

―ちなみに衣装ってどんな感じでしたか?

 

最初は、法被か阿波おどりのように菅笠をかぶって、下駄を履いてっていうのだったと思う。 
 

濱口八郎さんも菅笠姿で

―それは何か、こういう衣装でっていうルールがあったんですか?

 
 
全然ないです。みんな衣装がわからんから、阿波おどりのマネやったんでしょうね。 
 

―今みたいに色とりどりの衣装でしたか?

 
 
いや、そこの流派の着物を着たり、うちなんかは、夏浴衣で格子の柄でしたね。とにかくいろんな衣装の人がいましたね。 
 

―賀世さんはどちらのチームでしたか?

 
 
わたしは、「若柳連中」っていうチームで踊っていました。子どもも大人も全員が日本舞踊を習っている人たちのチームだったんですけど、で、そのチームが賞に選ばれてしまったんですよ。そしたら父が怒って、「自分でつくって、自分で踊って、賞に入るがはいかん。上手いのは当たり前」と。なので次の年は、私は市役所チームに教えに行って、市役所で踊りましたね。 

(聞き手=芳村百里香)
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