▶入院時も譜面に 最期まで音楽と向き合った武政さん
(武政英策さんには交響楽団の指揮者としての顔も)
―結婚の挨拶後、武政さんとはよく会われていたんですか?
私たち夫婦は最初、高知市内の市街地に住んでいたんで、結婚した当時は自分らも生活があるし、そんなにこっち(宗安寺)に足を運べなかったんですよ。けんど、それから何年かして、おじちゃんが体を悪くしてね。今はもうなくなったけど、追手筋にあった西内病院?ってとこに入院したんですよ。で、おじちゃんが「森田君、ラジカセを持ってきてくれ」って。
―入院してもラジカセ!さすが作曲家さんですね。
そうなんですよ。で、その当時、サンヨーの“ダックスフンド”っていうダブルカセットがあって、それを持っていったらおじちゃん喜んでくれるかなって思ったんですよ。けど、あの性格でしょ。「ソニーじゃないといかん。」って。結局ソニーの機械に替えて持っていきましたよ(笑)。けんど、音楽にかける情熱。入院して体調も悪いのに、後ろにもたれて、びっしり音楽の仕事というか、ひょっとすると趣味もあったかもしれませんけど、ものすごく没頭して音楽活動していましたね。あの姿はいまだによう忘れません。
―お見舞いに行かれた際も作曲されていたんですか?
そうなんです。で、カセットテープ買ってきてくれとか、いろいろ、いつも私が持っていってね。けんど、おじちゃんが癌で、あまり余命が長くないってことが分かって、おじちゃんが「病院で死にとうないーって、家で終わる―」って。
ここに来る時、車では上がれん急な斜面があるでしょ?病気のおじちゃんではさすがに自分で上がれんき、私が背負って上ったんですよ。それから1年くらいやったかな。本当に音楽活動に没頭していましたよ。先生から先が短いって言われていたので、私もおじちゃんの様子をびっしり見に来ていたんですよ。で、いつ見ても、ピアノ弾いたり、譜面書いたりしていましたね。
(武政英策さんが最晩年過ごした高知市宗安寺)
―そうだったんですね。
私自身があまり音楽に詳しくないものやからね、作曲がどうかとかが分からなくて、来たときに「おじちゃんあんまり無理しなよー。しんどくなったら横になったりせないかんー。」って説教じみたこと言ったりしてね。
―それでも止めない?
それでも止めん(笑)
―じゃあ最後は病院から戻ってこられたから、亡くなられる1年くらいはずっと作曲活動されていたんですね。
そうなんです。ここへ帰ってきてから作曲したものは、もちろん世にも出てないし、残ってないですけどね。だから世に出て残っているのは、元気な時の「南国土佐を後にして」とか「よさこい鳴子踊り」とかですもんね。
(次回に続く)
宗安寺の旧山荘で辿る「武政英策物語」 ~甥・森田繁広さんに聞く~(後編)