「よさこい祭り20年史」から読み解くルーツ⑤
「鳴子???珍しい踊りやなあ~」
よさこい祭りにかかわり、支えてくれているのは、県内外から参加してくれる踊り子、衣装、音楽、鳴子、地方車、各地区の競演場の皆さん、そして大勢の観客…。そうした中で、現在も祭りの開催・主催団体となっているのが、「よさこい祭振興会」と呼ばれる団体です。のちに、北海道の「YOSAKOIソーラン祭り」をはじめ全国によさこいが伝播していく際に、それぞれ地域性などはあるものの、よさこい祭振興会と類似する組織団体が設立されていった経緯があります。
今回は、「よさこい祭り20年史」とともに、同じく同振興会がまとめた「よさこい祭り40年」の記述も参考にしながら、祭りの生い立ちを考えていきます。同振興会の母体となっているのは、一貫して高知商工会議所という団体ですが、よさこい祭りが始まる少し前までは、高知県内の商工業者を代表する経済団体で「高知県商工会議所」という名称でした。「―40年史」によると、それが、町村合併による新しい市の誕生を見越して、「県」を外して高知市域を主とする「高知商工会議所」へと改組されます。
実は、よさこい祭りの構想へと、直接つながっていく、いわゆる南国博(1950⦅昭和25⦆年)で、日本舞踊の師匠らが「新しいよさこい踊り」(=「よさこい祭り20年史」から読み解くルーツ④ 参照=)を披露することになった仕掛け人も、同会議所のメンバーらだったとされ、お隣徳島の阿波おどりを見学に行くなど、準備を進めていきました。「阿波おどりに負けない祭りを!」と、よさこい祭りが始まったとされる背景には、こうしたこともがあったのでしょう。
一方、1954(昭和29)年に始まったよさこい祭りは、各チームの踊り子の皆さんが演舞する今の祭りとは、かなり違ったイレギュラーなかたちで開催されました。最も違ったのは、よさこい鳴子踊り一本ではなかったこと。県内各地の郷土芸能が一堂に会し、そのうちの一つとして、踊りも曲もつくられたばかりの新参者?のよさこい鳴子踊りが披露されたのです。当時、郷土芸能の演者として参加した人という方に話を聞くと「鳴子???まあ、妙なもんを持って踊る、珍しい踊りやなあ~。そんな感じで、まさかそれがこんなに大きな祭りになっていくとは…」と振り返ります。
おそらく、よさこい祭りの原型は、三重県津市で開催される「津まつり」と似たようなかたちだったのではないでしょうか。津まつりでは、無形民俗文化財に指定されている「唐人踊り」や「しゃご馬」といった伝統芸能が沿道を練り歩き、そこに、よさこい祭りやYOSAKOIソーラン、名古屋の「にっぽんど真ん中祭り」の流れをくむ「安濃津よさこい」が競演、新旧の踊りや文化が融合することで新たな魅力を発信しています(=当HPの街は舞台だ「鳴子の旅」参照=)。では「-20年史」(一部抜粋)より「よさこい祭り前夜」の記述をご覧ください。
第1回よさこい祭り、高知市の中央公園(よさこい祭り40年より)
第1回のよさこい祭りは、郷土芸能との競演に…
1954(昭和29)年の7月はじめ、よさこい祭り準備委員会を招集して、「よさこい祭振興会」の発足を見る。振興会の主体は、高知商工会議所、高知県観光連盟、高知市観光協会、高知新聞社で、後援を高知県、高知市、NHK高知放送局、ラジオ高知(現=高知放送)、高知市商店連盟として、会則も定められた。
また、祭りの運営進行を図るために、振興会の中に専門部を設け、総務、進行、舞踊審査、資金、宣伝、祭典の6部門を設けて準備活動を開始した。
資金部委員会は県、市はじめ金融関係、娯楽関係、商店関係に分かれて資金集めに奔走。 宣伝部委員会は宣伝用レコードの吹き込み、ポスター製作や宣伝踊り子を街頭へ送り出した。 進行や祭典、その他の委員会もそれぞれ、運営進行計画、祭典、舞台の位置の検討などにつとめた。
こうした中で7月半ば、よさこい鳴子踊りの新作発表会が高知商工会議所で開かれた。 踊り子は朝倉小学校教職員児童、料理店、旅館のメンバーで、報道関係者や一般参観者も多数出席、好評を博した。
8月に入って、準備はいよいよ大詰め。市民や商店、各種団体等もきわめて協力的で、銀行協会ではすでに8月10日を高知市に限り、臨時休業することが決定されていた。
よさこい鳴子踊りは、はじめての催しであるために、一般の参加が少なく、郷土芸能との競演を余儀なくされた(2回目以降はよさこい鳴子踊り一本となる)、また、しばらくの間は舞台を設置、審査は高知新聞社が担当することになった。
何もかもが、即製の出発だったが、1954(昭和29)年8月10、11の2日間にわたる「第1回よさこい祭り」を迎えた。